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冊子「体協35年のあゆみ」より抜粋

 ◇ 犬山山岳会の歩み(設立~平成元年) ◇

■ 山岳会の結成に向けて ■
昭和49年(1974)12月、犬山にも山岳会を・・・・と、発起人準備会が開かれた。呼びかけたのは山田。集まったのは、加藤(明)、板津、堀江、小野部、奥野のみなさん。場所は井筒定(小野部宅)。
会員は、「原則として、犬山市に在住、在勤」と決めて、互いが手分けのうえ市内の山の好きな人たちに参加を呼びかけた。その一方、中日、朝日新聞の地方版に、「山岳会を設立、会員を募集中」の記事を掲載していただいた。
2回目の会合、設立準備会には、さきの6人のほか、来田、高橋、広井、渡辺、東、吉野、植木、小川、前田、森など、市内や近隣市町の企業山岳部と山の好きな人たち、あるいは、沢野、服部、木野、宮田などが参画。母体ができあがった。

■ ようやく設立総会開催 ■
昭和50年(1975)4月、市福祉会館で設立総会を開催。市長・小島清三さんが、祝辞をのべに来てくださった。創立会員は24人。名称は犬山山岳会。組織は、会長、副会長、会計の下に、庶務、山行、装備、教育、広報の5部門を置き、会員は全員がいずれかのブロックに属することとした。
* この部門制は実際にはうまく機能せず、1年限りで廃止。
初年度の役員は次のみなさん。会長兼広報/山田、副会長兼山行/加藤、副会長兼庶務/小野部、会計/板津、装備/渡辺。
設立総会には間に合わなかったが、ひと足遅れで南米アルパマヨ 5、950m他登頂の加藤(千)の入会を得て、会期なかばから山行兼教育の理事を引き受けてもらった。あと一人ぜひ入会してほしかったのは、栗原。当時、彼は勤務先の関係で北陸に赴任中。どうにもならなかった。
設立後、ただちに市体協へ加盟を申請。しかし加盟は保留となり、一年後の翌昭和51年(1976)に加盟。県労山加盟は昭和50年、昭和52年に脱退。

■ 会員もふえ順調に発展 ■
なにもかもが試行錯誤のなか、会の基礎づくりに力が大きかったのは、加藤(美)、加藤(千)、来田、板津、渡辺などのみなさん。外部から力を貸してくださったのは、当時の市教育長・阿部さん。青少年の野外教育(キャンプ)備品等を市教委で購入して、その管理を山岳会に委託等、便宜をはかっていただけた。ちなみに、創立から昭和52年3月まで、犬山山岳会の事務所は市教委内におかれていた。
昭和52年(1977)4月の会員は35人。役員は次の皆さん。会長兼広報/山田、副会長/加藤(美)、同/来田、会計/板津、庶務/沢野、山行兼教育/加藤 (千)、山行/磯山、装備/渡辺、広報/今井、歩こう会/高橋。
昭和53年(1978)4月の会員・会友は55人。役員は次のみなさん。会長兼広報/山田、副会長/来田、事務局兼会計/板津、庶務/沢野、同/近藤 、山行/渡辺、同/磯山、教育/加藤(千)、装備/才田、広報/今井、歩こう会/高橋、同/下条。

■ 各種の事業がスタート ■
話は前後するが、市民登山の第1回は昭和52年7月。行先は御岳山 3,063m。夜行日帰り、参加者90人(バス2台、会費:大人 5,800円、小人 4,800円)、主催:犬山山岳会、後援:市体協。市民ハイキングの当初の名称は「市民体力つくり100キロ歩こう会」。わずか10余年前のことなのに資料が散失。詳細はわからなくなったが、ほぼ隔月に実施。その1回目は昭和50年。行先は、善師野~継鹿尾山~犬山遊園(自然歩道)。
市体協の保管資料のなかに市民ハイキングがあるが、6回目は昭和51年2月。コースは善師野~石原~鳩吹台~可児川。参加無料(ただし交通費は参加者負担)。市体協に加盟ができず(頼りにしていた助成金がもらえず)、そこで、会長の山田が、市長、市教育長に直接陳情し、市教委が一切負担、さらに引率手当て(1人 1,000円×5人)×年4回をもらって、それを会の運営費に充当した。

■ 会員の大半は20歳代! ■
会報は昭和50年6月に第1号をだし、以降、毎月1回発行、現在に至っている。この会報もまた大半が散失、断片的に残っているだけだが、ここに昭和51年8月号(第15号)がある。この行事案内欄(7月分は略)によれば、8月1日:瓢ケ岳 1,163m/奥美濃(L/吉野)。8月3日:運営委員会/市体育館会議室(進行/沢野)。8月8日:夏山合宿装備点検/事務局(L/加藤 (千))。8月11~16日:夏山合宿:北岳(南ア)3,192m他(CL/加藤(千)、L/渡辺)。8月17日:勉強会/市体育館会議室(講師/加藤 (千))。8月21日~22日:歩こう会/八曽キャンプ(CL/高橋、L/加藤(美))。8月24日:勉強会/市体育館会議室(講師/加藤(千))。8月29日:伊木山/岩攀訓練(L/板津)。9月5日:雨乞岳 1、238m/鈴鹿(L/近藤)。9月7日:運営委員会/市体育館会議室(進行/沢野)。9月12日:大日ケ岳 1,709m/白山(L/吉野)。9月19日:御在所 1,210m/鈴鹿(L/高橋)。9月21日:勉強会/市体育館会議室(講師/加藤 (千))。9月26日:伊木山/岩攀訓練(L/加藤(千))。9月28日:勉強会/市体育館会議室(講師/加藤(千))。
一方、報告欄は、6月9日:歩こう会飯盒炊さん/八曽巌頭洞(CL/高橋、L/来田、渡辺、SL/磯山、杉谷、東、吉野、引率/植木、森、才田、下条、今井、伊藤、近藤 、中嶋。加藤(千)、板津、山田=計18人) 参加者:大人71人、小人65人、市教委3人、総計157人。参加費:大人 3,000円、小人 2,700円。6月9日:反省会/市体育館会議室(進行/沢野、出席/森、杉谷、下条、今井、中嶋、加藤 (千)、東、磯山、山田、来田、渡辺、高橋=計13人)。6月13日:定光寺/岩攀(L/奥野、参加/中嶋、渡辺=計3人)、会費:未報告。6月12日~13日:赤岳 2,899m/八ヶ岳(L/加藤 (千)、参加/近藤、山田=計3人)、会費:@6,000円。6月15日:勉強会/市体育館会議室(講師/加藤(千)、出席/山田、東、下条、磯山、沢野、熊沢、才田、中嶋、今井、近藤、森、奥野、渡辺、板津=計15人)。天気図のかきかた。6月20日:御在所/鈴鹿(労山清掃登山)、報告書未提出。6月22日:懇談会/市体育館会議室(進行/山田、参加/加藤 (美)、加藤(千)、板津、高橋、磯山、今井、下条、沢野、奥野、近藤、中嶋、東、渡辺、他1人。市教委/宮島新係長ほか2人=計18人)。勉強会の予定を直前に懇談会に変更。軽食(市教委の負担)で、歩こう会の反省点や今後の進め方等を話し合う。6月26日~27日:新人歓迎会(兼ワっちゃんのさようなら)コンパ/八曽(L/山田、参加/高橋、渡辺、磯山、下条、・・・・

==== 省略 ====

毎月第1火曜日夜に運営委員会、第3・4火曜日夜は勉強会、毎週日曜日に山行、そして4日曜は岩攀訓練。このころの山岳会は、会長の山田が40歳になったばかり、あと30歳代が3人、残りは加藤 (千)以下全員が20歳代(20歳未満が3人)の若者。会報の一端にも若さと会創立の情熱、エネルギーがうかがえる。
また、個人的には野呂が、昭和51年にムスターグ 7,400m/カラコルムに遠征、バリエーションルートを登り、昭和52年には、愛知学院大遠征隊の1員に選抜され、ブロードピーク 8,040mの登頂隊員として頂上に立っている。
なお、昭和53年、54年と山行活動の中心は、次第に渡辺、磯山、服部、才田などに移ってゆき、スキー行がさかんになった。

■ 新会員ゼロの停滞時代 ■
大学キャンパスで、しごきを伴う部活動が敬遠され楽しくエンジョイする同好会が花盛りとなったが、この若い世代の傾向は直接跳ねかえり、昭和55年を境に新会員がばったりと途絶えた。当然ながら、新会員の研修プログラムはすべて流れることとなり、山行活動は激減、停滞の兆しが始まった。かげりのさしだした昭和56年(1981)の役員のみなさんは、会長兼広報/山田、事務局/板津、会計/磯山、山行・装備/渡辺、庶務/加藤 (千)。会員・会友32人。
ここに1枚の山行計画がある。昭和56年5月3日~5日:春山合宿(L/渡辺、SL/山田、参加/神戸中、井端、安藤、吉野、藤島、石原、小山)。石徹白・和田山牧場の上部に設営、天幕から薙刀山1,647mをピストンするなど、雪上生活と初歩的な雪上訓練を行ったが、会としての組織的な初・中級向け合宿は、この年のこれが最後。停滞のときが訪れた。
昭和57年(1982年)から昭和60年(1985)まで、この停滞の時代の山行活動を支え抜いたのは、渡辺、神戸中、日比野の3人。山行活動がそれなりに途切れることなく続いたのは、この3人のおかげである。
会員の大半は在籍するだけで活動がないなか、昭和58年7月、(総会が開かれない役員改選で手続き上は違反になるが)さきの3人が話し合いで決め、みなが追認した役員は次の5人。会長/山田、副会長/板津、山行・装備/渡辺、庶務・広報/神戸中 、会計/日比野。

■ 会の基本方針を転換 ■
会活動が停滞のなかも、市民ハイキング春・秋各1回)と登山教室(夏季1回)は実施してきた。この努力が実を結んだのか?参加者の中から入会の問い合わせが出てきたので、この機に、会の方向の転換を図り中・高年層も、積極的に受け入れることに決定。この決断は、山田、板津の正・副会長が、独断の批判をうけるのを覚悟の上で決めたもの。
この方向転換期の昭和61年、前駆的な存在は、宮田四郎、稲垣英成(共に役員辞退)など。中・高年者をまとめてもらった。そして、この中心的役割を果たしたのが、庶務/三品、山行/藤島2人。三品は登山教室等の参加者の自宅を訪ねて、入会をすすめるなど会員の拡大に、そして、その新会員の山行は藤島が担当した。
しかし、急激な方向転換は、新旧の役員間に軋轢が生まれたほど。試行錯誤のなか、中・高年層中心の山岳会が、ようやく軌道に乗ったのは昭和62年。
昭和62年(1987)の役員は次のみなさん。顧問/高木(靖)、会長兼広報/山田、副会長/板津、装備/渡辺、教育/加藤(千)、山行/神戸中、軽山行/栗原、登山教室/磯山、市民ハイキング/田中、同/山口 、庶務/高木(茂)、会計/日比野。会員・会友35人。幽霊会員はすべて一掃となった。

■ 中高年者中心の山岳会 ■
昭和63年(1988)は役員の一部が異動。庶務/栗原、同/山口、同/柏倉、広報/栗木がかわった。しかし、山行活動の基本方針は継続され、まず1点目は、(a)技術的には、今日入会したばかりの会員でも、参加できる山行。(b)体力的には、高齢者や日ごろ体を使わない会員でも、参加できる山行。(c)時間的には、家庭の主婦などのように、長時間、家をあけられない会員でも、参加できる山行。この三つの要件を満たす山行を、月に最低1回もち、これを例会山行とする。2点目は、役員は年に最低1回は、例会山行を担当する・・・・。この2点を柱に山行活動が組まれた。
帰犬、入会の栗原の存在が大きく、昭和63年の役員改選を機に、犬山山岳会は庶務の栗原を中心に運営されている。同年度の運営会議は15回。山行52回86日、延べ参加人員は183人。会員・会友は現在35人である。なお、県岳連加盟は昭和62年、同理事は山田。昭和63年度の山行活動の一端は次のとおり。5月23日:木曽駒ケ岳(中央ア)初級雪上訓練(L/加藤 (千)、参加/山田、渡辺、神戸中、藤島、月ヶ瀬、佐々木、柏倉、長谷川、桑原、山口、高木(茂)、畔柳、中村、栗木、他1人=計16人)。7月31日:御岳/市民登山(L/磯山、引率/渡辺、山田、板津、日比野、栗原、柏倉、加藤 (千)、栗木、月ヶ瀬、富田、長谷川、小林、小島、酒井=計15人)。会費:@9,500円。
平成元年度の役員は次のみなさん。会長/山田、副会長/板津、庶務理事(兼広報)/栗原、庶務理事/柏倉、同/山口、会計理事/磯山、教育理事/加藤 (千)、同(兼装備)/渡辺、登山教室理事/神戸中、同/日比野、広報/栗木、顧問/高木(靖)。

「体協35年のあゆみ」
発刊 平成元年
発行 犬山市体育協会